見えないものが、見えたとき

 

都内で展示がされている貴重な機会に巡り合うことができました。

陸前高田「軌跡の一本松」の根っこです。

見えないものが見えたこの空間に圧倒されました。かつて、陸前高田に佇んでいた松林の中にあるたったの一本であったことは「軌跡の一本」と言われる所以です。このような根っこがあっても残ることができた木とできなかった木の物語に想いを馳せながら、根っこのありように呆然と考えました。

見えているものはなんだろう。

見えないものを見ようとする力はどこにあるのだろう。「力強さ」という言葉を超えるものがあります。

 

 

七万本あったとされる松林が津波によってたった一本残った松の木の根です。見える部分は少なく細いとしても、見えないところの価値はどうあるべきか。細く繊細でありながらも強い生命力を宿していたことを目の前に何が希望となるのか、見えざる力を目の当たりにします。触れなくしても伝わってくるエネルギーに未熟なわたしは押しつぶされそうな感じたことのない感覚に襲われたのです。

そして言うまでもなく、この空間はとても幻想的で非現実的な時間としてある種の大きな衝撃とともにのし掛かってきました。

陸前高田の、東日本大震災を経た空ではなく、

軌跡の一本松と言われているからではなく、

あの出来事がなかったならば決して見ることの出来なかった姿。

それが見えたからではなく、見えなくても心に語りかけてくれるものがあります。まるで人間力と同じような佇まいです。

わたしはこのように根を張れているんだろうか、大切にしているんだろうか、と。

線が細いからとか、見える部分が調っているからではない。

見える部分の美しさとは異次元の美しさがあります。

 

 

見えなないことの意味と価値、今日に語りかけてくれるものや問われていることが迫ってくるようでした。

適切なる保存処理がされ、根だけになってもまだ魂が宿っているかのようなエネルギーとともに、

隠れていることを気づこうとする行為や努力がどこまで出来ているのだろうかと、わたしたちに投げかけてくれています。

樹齢推定173年と言われる時間の重みがまだまだ、重なり続けているのではないかとまだ、思うのです。

「軌跡の一本松の根」展が開催された、丹精なる建物との対比を思えば、計算つくし整えられた美しさと自然に張り巡らされた根っこの相反する美しさを、時同じくして魅了される不思議で贅沢なひとときです。

 

 

見えないものが見えないままに、大切なものはこれからも大切なのか。根っこを伸ばし、伸ばしても尽くせない希望や情熱を持って歩める人でありたいと思いながら、偶然の流れで出会うことの出来た根っこを目の前にして、本質・真実・希望について考えてみた「ひとり時間」、夏の日の紀尾井清堂にて。

 

文・撮影/Chikayo Kono Modrušan

@croacica